ヒストリーひとに恵まれ、ひとと育んだ

浅草と鳥越祭りの歴史の中で

1350年の歴史とロマン、筋を持った
鳥越祭り

500人で担ぐ本社神輿は都内最大といわれる千貫神輿(せんがんみこし)。その名称通り、重さは4tほど。
下町の担ぎ手が息を合わせて担いでも、神輿を安定させるのがとても難しいといわれており、真剣さゆえ荒っぽくなることから「喧嘩祭り」といわれますが、その迫力は感動と興奮をよびます。
移り変わりの激しい都心のなかで、昔ながらの佇まいを色濃く残しているのも愛される所以でしょう。(出典:Wikipedia)

世界の人々も惹かれる下町ASAKUSA

浅草は古くから観光名所として名高く馴染み深い雷門(※正式名称 風神雷神門)は日本人にとどまらず、海外の人たちにとっても魅力の場所であるのは、あまりにも有名な話です。

なんと恵まれていたのだろう
好転までの日々を語る

齋藤 功1986年 法政大学卒業 (有)斎藤鍍金工場入社、1998年 代表取締役社長就任
齋藤 弘1988年 法政大学卒業後 (有)斎藤鍍金工場入社、2002年 (有)トライを設立

バブルがはじけて

齋藤功(※以下 功)あのとき4億以上の借金からの再スタートだった。本当なら借金を背負わないでいけるはずだったのにね。
で今度は数年後、得意先の金具屋から経営があぶないって連絡をくれて、倒産する前にリスク回避でで作ったのが現在の(有)トライだったな。
金具屋の取引先・数人の社員・協力工場にも取引を続けてもらって20年になるんだ。

齋藤弘(※以下 弘)そうだよ、メッキ屋の工場長から金具屋の社長になっちゃった...その時のメンバーは今も一緒に働いてるんだもんな。
もう20年になるんだね。あの頃2年くらい給料なかったよ。

ピンチだったよな、お手上げだもん、4億以上の借金があって、さらに不渡り手形で4000万円も引っかかって、業界じゃ斎藤鍍金がつぶれるぞ!って噂が流れていたもん。

グループ会社にしたことで、好転の兆しが

あの時、斎藤鍍金がつぶれたら、メッキ屋(※(有)トライ)に買い取ってもらおうと考えていたよ!
メッキ屋がグループ会社にいるから、他ではマネの出来ない新色を作ったりして、どんな色でも作れる金具屋として業界でも一目置かれるようになっていったと思うよ!

その間にピンチの会社があれば、自分たちの経験をもとに必死に立て直しを手伝ったりしてたよね。
こうやって話せばさ、何だか簡単そうだけど、とにかくその当時は不眠不休だったね!

(有)トライをスタートした頃、仕事の仕組みなど難しいことがあって、ただ引き継ぐだけでは上手くいかなかった。
強度や使用の問題などで専門家同士の話が出来ないと受注できないし、要望にかなった製品も作れない!見積もりも出せない!
それら全てを理解するまでが大変だったよ。

最初の一年、怖いな、潰れるかもと思いながらやっていた。ピンチをチャンスに変える事が出来るだろうか?
そんな経験をしたからこそ今があるのは間違いないと思う。

ふりかえってみると、周りの人達に助けられていて、うちは相当恵まれていた、そう人に恵まれていたんだ。

本音でぶつかっていく、正直でいい

なんで恵まれていたんだろう?

そうだなあ...見栄張ったり、嘘ついたりするのが面倒だったからね。
借金大変?なんて聞かれたときも、まだこれだけ残っています!って正直に借金額を言っていたね。
本当の事だから、恥ずかしいとか気にしてなかった。

ただ嘘を言わないから、思ったことを全部口にしちゃって喧嘩にもなることも多々あったけど...。

多分正直に付き合っていたから、みんなの信用をもらえて、結果色々な面で助けてもらったり、仕事もつないでもらえたと思う。
あの頃、ときどき新しいお客さんからイイ話が来ても いま付き合ってくれているお客さんの仕事を後回しにしてまでは依頼を受けなかったな。
今までお世話になっていたお客さんに、迷惑かけられなかったしね。
自社で出来ないなら、協力してくれる仲間の会社に任せよう!って繋いでいったんだよね。

鍍金屋がいやだった
だから、変えていったら・・・

昔はいやだったんだよ、仕事はきついし、匂いは臭いし、薬品で手は汚くなるし。

きつい・汚い・危険の3Kだしね、凄く嫌だったよ。やりたくなかった。仕事していても面白くなかったし。
なんで?いま俺はなにをつくっていて、どんなものに成るの?って。
それ、わかんないのって、やりがいってないじゃない?
つまらないよ、面白くない、全然。

流れ作業だったときはね、つまらなかった。
もの作りしているって感じなかったし、メッキをしていてもただ作業するだけで喜びはなかったな。

それを変えていったんだよな。
職人にも、いまあなたがメッキしているパーツは鞄のこの部分なんだよ。このパーツが鞄に付いたら、こんなかっこいい鞄になるんだよ!ってね。
この部分のメッキをしたんだよ。って実物を見せていったな。毎回毎回しつこいくらいにね。

何に使われるのかわからずメッキしていると、実際に購入して、使ってくれる人のことなんて考えられないんだよね。もう全然面白くないよね。

職人が誇りをもてるまでになって

例えば、ベルトの金具の付属パーツだけ作っていたら、次の工程がわからないから、細かいところに気がつかないよね?
パーツをベルトと繋げる工程の際に、金具を少し曲げる工程がある。それがわかっていれば、メッキを薄めに付けて曲げた際に、割れないようにしよう!ってなるじゃない。

それを考えて仕事することで職人たちのプロ意識にもつながるよね。

その後、職人たちが、このパーツはどんな製品に付くのか?メッキの後に曲げ加工があるのか?って色々聞いてくるようになったんだ。
聞いてこない職人にはさ、聞きなよ、とにかく聞いてくれ、教えるから!って、しつこいくらいに言ったんだ。
時間がかかったけど、やっと社員全員で仕事に取り組む考え方を変えていったんだ。

その甲斐があってようやく、自分たちの仕事に誇りを持てるようになったんだよ。やっとここ何年かでね。

もの作りって、思いをこめて作業すればイイものができるんだよ。
メッキ屋さんの地位あげるのに、まずは社員から変えていこう!
次にメッキ業は世の中に絶対必要なんだ!っということを世の中に広めていこう!そんな気持ちが強くあったんだよね。

いまもつながる人との縁と紲(きずな)

普通のメッキ屋は、決まった業種に特化しているのに斎藤鍍金は、多業種から依頼を受けていてメッキ屋のなかでは珍しいよね!品物のサイズ・メッキの色など条件が揃えば、どんな業種の品物でも受けることが出来るからね。

いつの間にか、なんでもやるようになったなあ...。

ランドセルの金具・御神輿の金具・トロフィー・有名ホテルのドアノブ。ファッションショーの装飾品、美術大学生の卒業作品のメッキ仕上げもあったしね。

そうそう!数あるメッキ屋からウチを探して来てくれるから、何か縁を感じるね!学生でお金がないだろうから無料でしてあげようって思った。
代わりに「卒業作品が仕上がったら写真でも見せてくれよ。」って話したら、しばらくすると学生が写真を送ってきてくれて・・・うれしいじゃない?そういうのが。
その写真を、かかわった職人に見せて喜んでもらったり、学生さんが、仲間を連れて遊びに来てくれてさ。

時間をかけて多くの方々に知ってもらえるようになったんだな!と最近は特に思うね!

この間もニューヨークコレクションで披露する、米国のコインを大量に使った水着のような衣装のメッキしたねえ!
それから、古いお神輿の金具。あれをピンクゴールドにして、東京国際フォーラム「組合まつり in TOKYO」に出店した時も、現小池都知事をはじめとして、多くの関係者がメッキの技術や独創的な発想に感心してくれたね!
あのぐい飲みはイイ色だよね。見た目が可愛らしいし、完璧な形じゃない感じが、あたたかな佇まいみたいに感じるでしょ、あれもいいんだよね。

でもね、やっぱり近所のお兄ちゃんの自転車のフレームにメッキしてって頼まれたら、チャレンジ精神がでてきて無料でメッキしちゃった。そのあと自転車のフレームに「サイトウメッキ・エンジニアリング」ってロゴ入れて見せに来てくれたりさ、ただただ、人の気持ちがうれしいんだよね。

結局やっぱり、人と人のつき合いで今がある。どんな小さい仕事でも、困っているなら受けたい。

研究?追求とか、すごくしたよ。しまいには、こうやったら会社が潰れるよって本まで読んだんだ。
これをやらなきゃ潰れないんだなって思って仕事してたなって思い出すよ。あの頃の職人もさ、叱られたりして嫌だったと思うよ。

そこには大切な「思い」があるんだよね。このラインまではどうしても伝えたいっていう気持ちが先にあってね。
この先ずっと一緒に仕事をしていく大事な職人たちだから、そこまで厳しく言うんだよね。
それだけはこれからも変わらないね。